①事故前の状況

ラグビーと出会ったのは、小学校4年生の頃でした。もともと野球と空手を習っており、身体を動かすことが好きな少年だった私は、ラグビーをしていた父親に連れられて行った花園ラグビー場で、初めて見たラグビーの迫力に惹かれ、ラグビーを始めました。

ラグビーを始めた当初はタックルや身体をぶつけることにビビっていましたが、それをチームメイトと乗り越えていく充実感からラグビーが大好きになり、その魅力にどっぷりとはまっていきました。

中学生になってからは、平日・土日問わずラグビー漬けの毎日を送っており、そんな日々が実ったのか、2012年、中学3年生になった頃には大阪府スクール選抜のキャプテンを任され、全国の選抜チームが集まる全国ジュニアラグビーフットボール大会で優勝を経験することができました。

同年度の全国高校ラグビー大会、通称「花園」では、常翔学園が5回目の優勝を成し遂げていました。私はその年の常翔学園のキャプテンの方の強烈なキャプテンシーに強い憧れを抱き、「自分も常翔学園に入ってキャプテンになり、全国大会で優勝したい」そう夢を抱くようになり、2013年4月に常翔学園ラグビー部に入部しました。

事故の発生

ラグビー部に入部して4ヶ月が経った8月12日、長野県の菅平高原で毎年行われる夏合宿の練習中に事故は起きました。当時、同級生が多くAチームに選ばれる中、自分はなかなかAチームに入ることができず、その現状に悔しい思いを抱えていた中、夏合宿中に初めてAチームに選ばれ、とても張り切っていたことを覚えています。フォワード(ロック・フランカー)としてプレーをしていたため、体格の大きい上級生の中で激しいコンタクトプレーを伴う場面も多く、痛めている部分もある中で「ここで弱音を吐くわけにはいかない」と何とか食らいつくようにして練習に参加していました。

その日はラグビー部OBのスポットコーチ指導のもと、3対2のコンタクトプレーの練習をしていました。ボールを持った私は相手側の選手とのコンタクトの後、頭から地面に倒れ込んでしまい、地面に頭がついた際に、自分自身の全体重と味方2人分の体重の全てが一気に首にかかり、首が身体に巻き込まれるような状態になりました。「グキグキッ」と鈍い音が響き、その瞬間どこかの骨を痛めたことを悟りました。ただその時はまだ、首の骨が折れ、身体が動かなくなっていることには気がついていませんでした。

うつぶせのような姿勢で倒れたところからプレーを続けるため立ちあがろうとしたところ、何かがおかしい。立ちあがろうとしても立ち上がれない。それどころか腕や足、身体のどこにも力が入りませんでした。すぐにチームに帯同していたトレーナーが駆けつけ、首を固定しながら姿勢を仰向けに戻してくれました。駆け寄ってきた監督に「動かせるか?さわってるの、わかるか?」と聞かれても、動かすことはもちろん、さわられているという感覚すら全くありませんでした。このときはじめて「あ、自分はとんでもない怪我をしてしまったのかもしれない」と自覚しました。

その後救急車が到着し、近くの診療所に搬送されましたが、CTを撮影しているあたりから首が猛烈に痛むようになり、だんだんと意識も朦朧となっていき、診療所から大きな病院に再度搬送されている最中から、次第に意識が遠のいていきました。

 ③受傷と診断

次に目が覚めたときには、病院のベッドの上で横たわっていました。後から聞くと、頚椎の4番, 5番の骨を脱臼骨折していたらしく、脱臼を元に戻し固定するため5時間にも及ぶ手術が行われたそうです。この時両親は医師から「一生ベッドの上での生活か、良くても一生車椅子で生活することになるでしょう」と伝えられていたそうです。私自身が医師からそのような説明を聞くのは、事故から数ヶ月後のことでした。

手術を終えて目を覚ましたとき、自分の腕や足を動かせるかもう一度試してみました。しかし、腕や足はおろか、首から下の部分は1カ所も動かすことができず、そのとき「やっぱり今日起きたことは夢でもなんでもなくて、ほんまに動けなくなったんやったんやな」と現実を突きつけられました。

 ④事故後の生活

病院でのリハビリは、ベッドの背もたれを少し起こすことからはじまりました。車椅子に座ったり、漕いだりする気満々だった僕は、正直肩透かしを食らった気分でした。しかし、いざ試してみると、ベッドの背もたれを少し上げるだけで視界がぐにゃりと曲がり、頭がクラクラして意識を失いそうになってしまいます。結局、ベッド上で座ることはおろか、姿勢を直角まで起こすことすらも出来ませんでした。

その原因が、起立性低血圧でした。姿勢を起こしたときに脳や心臓に戻ってくる血液量が低下してしまい、立ちくらみや意識消失を起こしてしまう症状であり、脊髄損傷によって交感神経や、脳と心臓に血液を戻す筋肉の働きが麻痺した当時の僕は直角まで姿勢を起こすと30秒と座っていられませんでした。どれだけ起き上がりたいと思っても、気持ちとは裏腹に、意識はだんだんと遠のいていってしまう。しかし、姿勢を起こして意識を保てるようにならない限りは、車椅子に乗ることすらもできない。とてももどかしく、悔しい日々を過ごしていました。

それでも、リハビリを何度も何度も繰り返し行っていくうちに、意識を保っていられる時間は少しずつ長くなっていき、ある日のリハビリ終わりに、「明日から車椅子に乗ってみよう」と伝えられ、浮き立つほどに嬉しかったこと、「これから自分はもっともっと回復していける!」そう思い、希望が溢れ出てきたことを覚えています。

しかし次の日、その希望は儚くも崩れ去りました。脊髄損傷によって呼吸機能も低下していた影響で、気管に痰が詰まってしまい、一時呼吸困難となりました。人工呼吸器を口から強制的に挿管することで、何とか一命を取りとめましたが、人工呼吸器が入っている間は、自力で食べることも、飲むことも、話すこともできず、点滴と、管を通して栄養を胃に直接流し込むことで、命をつないでいるような状態でした。

夜は病院のベッドで1人になり、孤独で、不安で、今思い返せば、この時期が肉体的にも精神的にも1番辛かった時期だったように思います。

 ⑤心理的な変化

事故から1ヵ月後、気管切開という処置を行い、人工呼吸器が入った状態での容体が安定したことから、長野県の病院からやっと大阪に帰ってくることができました。大阪に帰ってきてからは、ラグビー部のチームメイトや先生方、ラグビー部OBの方々などたくさんの方がお見舞いに来てくださりました。ただ、人工呼吸器が入ったままだとお見舞いに来てくださった方と話すことができないため、まずは人工呼吸器を外すことを目標にリハビリを再開していきました。

グビー部のチームメイトは、お見舞いに来るたびに「いつでもグラウンドで待っているぞ」と前向きな言葉をかけてくれ、監督をはじめ、多くの先生や職員の方々が復学に向けて動いてくれていました。この頃から「どんな姿であっても、チームメイトの待つグラウンドに戻りたい」という思いを強く持つようになり、より一層リハビリに励むようになりました。

そして事故から7ヶ月後にラグビー部のチームメイトが待つグラウンドにはじめて戻ることができ、病院から週に数回の通学を経て、高校2年生になる2014年7月に病院を退院し、完全に復学することができました。

それからもラグビー部の活動に参加し続けて、最終学年となる2015年にはラグビー部のキャプテンを任されることになり、中学生時代の夢であった常翔学園ラグビー部のキャプテンとして、合宿や遠征も含めた全ての活動に参加し、チームメイトと共にとても充実した1年間を過ごさせていただきました。

 ⑥学校・組織の対応

事故当時の学校側、特に監督の対応は非常に迅速かつ的確なものであったと考えています。事故後すぐに当該練習に参加していた部員を集めて状況の確認をし、事故に直接的に関連があった部員には個人的に面談を行い、事実確認と故意の有無についても確認をした上で、その日のうちに両親と学校に報告をされていました。また、監督から夏合宿をすぐに中止して、大阪に引き上げるという申し出もありました。

その後も1週間のうちに校長先生、事務長、保険教諭の方々が長野県まで足を運んでくださり、必要な事務的な手続きについての丁寧な説明と、今後どのように学校生活を送ることを希望するか、といった旨の確認がありました。そこで両親を通じて「ラグビー部のチームメイトと同じ学年で学校生活を送り、卒業したい」という希望を伝えさせていただき、実際にその希望が可能な限り実現できるように対応をしてくださりました。この時にすぐに休学といった一方的な対応ではなく、対話をもとに自分たちの希望に寄り添ったかたちで対応をしていただけたことに、とても感謝しています。

 ⑦法的・社会的な対応

具体的な対応として、まずは授業単位取得のための配慮がありました。チームメイトと同学年で卒業するため、当時はzoomのような遠隔授業のすべもない中、入院中も授業の単位を取得する必要がありました。そこで学校は、ビデオで録画した授業を病室で視聴し、病室で口頭試問の試験を受けるといった形式で、単位を取得できるよう対応してくださいました。また、日常生活においても排尿や体温調節など医療的な処置が必要なため、復学に向けて、学内での処置のために看護師を雇用するといった対応もしてくださりました。

また、事故後の生活を送っていく中で、手術の費用や入院費用、自宅改修に伴う費用、車椅子や介護リフターといった介護用品の費用、継続的なリハビリのための費用等、生活をしているだけで多くの費用がかかるような状況になっていきました。また、私の身の回りのケアのために母親はパートを退職し、父親も会社での昇進の機会を諦めざるを得ず、世帯収入も大幅に減少し、経済的負担が重くのしかかってくるようになりました。

そこで復学後に学校側と再度話し合いの場を設けてもらい、一定程度経済的支援をいただくことになり、さらに毎年必要な支援や費用について相談する場を設けていただくかたちで同意をしました。実際、その後も高校、大学(同系列法人)在学中は毎年相談の場を設けていただき、継続的に支援をしていただきました。

また、ラグビー部の監督が主となって「金澤功貴を支援する会」を設立し、花園ラグビー場をはじめとする多くのラグビー場で募金活動をしたり、ラグビー部OBやラグビー関係者に向けて募金を募っていただき、こうした支援に経済的にも精神的にも非常に助けられました。

⑧伝えたいこと・社会への提言

ラグビーによる重症事故の問題は深刻で、もう二度と誰も自分と同じような思いをして欲しくないという気持ちが強くあります。それでも、ラグビーによる重症事故は一定数起きてしまっている現状にあり、重症事故を減らしていくため、予防策を講じていくことはラグビー界全体の急務であると考えています。

一方で、どうしてもラグビーをできなくなるような事故が起きてしまったときには、自分にできることがあれば全力でサポートしたいと思いますし、プレーをすることができなくても、ラグビーが好きで居続けられるように、ラグビーに関わりながら活躍できるチームとの関係性や居場所、環境づくりのサポートにも取り組んでいけたらと考えています。

今自分にできる事は微々たるサポートしかありませんが、少しずつでもそのサポートの輪・ラグビーの輪を広げていけるよう、努めていきたいと思います。