① 事故前の状況

私は大阪府寝屋川市立第三中学校からラグビーを始めて、大阪市立都島工業高校、日本体育大学を経て大阪府警でプレーをしてきました。都島工業高校と大阪府警では主将を務め、日本体育大学時代には国立競技場でもプレーしました。また、大阪府警時代に、関西社会人選抜として英国遠征に参加させていいただき、大変充実した現役時代を過ごすことができました。 ポジションは主にフランカーでタックルが得意な選手でした。 現役を引退した後は、大阪府警生活安全課の警察官として忙しい日々を過ごしており、その後、先輩から 40歳以上のシニアラグビーに誘われ、日曜日の午前中は枚方ラグビースクールの指導、午後からはクラブチームでプレーするという生活を送っていました。

 ②事故の発生

私が怪我をしたのは46歳の時、2012年(平成24年)12月23日です。 その日の試合まで 3週間連続で試合が続いたことや、前週の試合で脳震盪疑いになっていたこと、その年の最後の試合で相手が強豪のライバルチームであったことから、「どうしても勝ちたい」と、本来楽しむべきシニアラグビーで勝敗に拘ったこと、加えて、フランカーの私が慣れないバックスのポジションをしていたことなど、後で考えれば悪いことが重なっていました。天候は曇り。残り15分ぐらいでノーサイドという時間帯でした。 私が相手のセンターにタックルに入った際、私の頭頂部と相手選手の胸部が激突し、私の頭が強く弾き返されてしまい、地面に仰向けに倒れ、その瞬間手も足も全く動かない。「これはやったな」とラグビーの試合で稀に起こる頚髄損傷を悟ったのでした。 倒れた後も意識ははっきりしていたので、曇り空を眺めながら救急車の音を聞いていました。 怪我をしたのは一瞬の出来事でしたが、この時から家族や周りの人を巻き込んで人生のすべてがまさかの方向に進むことになりました。 

 



③受傷と診断

救急車でグラウンドから近くの神戸大学医学部附属病院に運ばれ治療を受けました。 年末で手術ができないのでとりあえずの処置として、患部にステロイドを注入し、ハローベストという四本の棒で頭部を固定しました。年明けに大阪けいさつ病院に移動して、首の骨をまっすぐにしてプレートで固定するための手術を受けました。 手術後もしばらくは食事を口から取れていたのですが、おそらく睡眠薬投与などの影響だと思いますが数日後に突然意識がなくなり、緊急手術を受けました。 術後は口に呼吸器をつけて食事も口から取れなくなり、 ICUに入って高熱と闘いながら生死の境をさまよいました。 その後、半年間ぐらいは食事ができず点滴だけで生活することになりました。 この頃に担当医から私の怪我は、頸椎のC4、5番目を脱臼骨折であると説明を受けました。そうこうしているうちに急性期の期間(受傷後3カ月)が迫り転院することになりました。 その時に担当医師から怪我の状況を「頚髄C5完全損傷」と改めて告知を受け「かなりキツく神経をやられてるので一生歩けません」と言われたのでした。 私はその時は受け入れられるはずもなく「リハビリをしたら必ず歩けるようになる」と思っていました。 その後、回復期(急性期終了後から6カ月)を北大阪警察病院(現医療法人成和会 北大阪ほうせんか病院)、星ヶ丘厚生年金病院(現星ヶ丘医療センター)で過ごした後、回復期以降も入院できる愛仁会リハビリテーション病院に転院しました。 怪我から半年が経った星ヶ丘厚生年金病院に入院していた時に、脊髄損傷の患者が集められ、医師から「損傷した神経は元には戻りません、ケセラセラで生きて行ってください」等と説明を受けたのでした。 それを聞いた他の患者から「こんな体じゃ自殺もできへんやないか」などと怒号が飛びかいその場は地獄のような空気になりました。私はその時に「一生歩けない、車椅子の生活」を絶望や諦めとともに悟って、少しだけ受け入れたのでした。 私自身は自分の趣味のラグビーで大怪我を負ってしまったことから、少しでも家族の介護の負担を減らさないといけないと考えて、大分県にある別府重度障害者センターへの入所を決めました。 そこで1年3ヶ月間、生活の中で少しでも自分でできることを増やす訓練やパソコンの操作方法などの講習を受け、摂食や歯磨き、排尿など身の回りのことを少しは自分自身で出来るようになりました。5つの病院と1カ所のリハビリセンター施設を経て、自宅に戻ったのは怪我をしてから2年半が経過した2014年の 7月でした。 



④事故後の生活

私が怪我をしたときは長男が大学受験、次男が高校受験を控えた大変な時期でしたが、長男も次男もなんとか目標の大学と高校に合格してくれました。 また、私の自宅は 3階建ての小さな家で、車いすでは到底生活できない状況でした。 そこで私の妻が、私が病院や施設を転々としている間に、隣の土地が空いていたので生命保険で受け取ったお金でバリアフリーの家を建ててくれたのです。 ただ、私が自宅に戻ってからは、家族も私をどう扱っていいのかわからず喧嘩ばかりで、2年間ぐらいはまともに口も聞けないような状態でした。 その間も行政の支援を受けて、基本的に1日4回ヘルパーさんが家に出入りし、それ以外にも入浴やリハビリ、訪問看護を使っての排泄など、ひっきりなしにヘルパーさんなどが自宅に出入りする生活が始まりました。 入浴は週3回、男性ヘルパーが 2人で来て、シャワーチェアという椅子に乗り移ってお風呂場まで行って全身を洗ってもらいます。 排泄については、排尿の方は日中自分でカテーテルを陰部に挿入してトイレでします。排便の方は週に2回、2時間くらいかけて看護師さんにベッド上で浣腸を使って処置してもらいます。 リハビリは週3回、訪問リハビリの先生に車椅子に座ったまま肩や足を動かすリハビリを受けています。 妻は毎日決まった時間、朝8時、昼12時、夕方18時に私の食事を準備するという生活が続いています。 



⑤心理的な変化と孤立

入院していた期間にはひっきりなしに沢山の方がお見舞いに来てくれ、また施設に入っていた九州にまで激励に来てくれたラグビーの仲間たちに支えられて、私自身はなんとか自分がしっかり生活していけるように頑張らないといけないとずっと考えていました。 職場では少年係の統括係長であった私が突然いなくなったことから、その補填のためにメンバーを再編するなどのご迷惑をおかけしました。 自宅に戻ってからクラブチームの飲み会に初めて参加した時には、チームに大変な迷惑をかけたことや皆の暖かい支えに対する感謝の気持ちで、思いもよらず大泣きしてしまいました。 私は次の春から長年希望していた大阪府警ラグビー部の監督でチームに戻る予定でした。 怪我をしたことは現役の選手や私の代わりに急遽監督に抜てきされた後輩にも多大な迷惑をかけてしまいました。 また一生懸命仕事をして、勉強をして昇任試験にも順調に合格させてもらっていました。 それらのキャリアも全て失ってしまったことは自分自身、悔やんでも悔やみきれない気持ちでした。 怪我をしてからは生活をするのに精一杯で、職場の仲間やそれまでの友達とも付き合いがなくなり孤独感を感じていました。

 ⑥組織の対応とその後の就職活動について

休職期間を最大限取っている間に職場の上司と復職に向けて何度も会議をしました。 復職できる基準などが法律で決まっていて、私のような重度障害者で復職は難しいことはなんとなく理解していましたし、職場への通勤が大きな障壁となっていることもわかっていました。 しかしこの先収入を得る術がないことから、なんとか25年間務めた職場に復帰できないかと懇願して復職の道を模索しました。 休職期間が終わる頃、私自身復職しても職場で仕事をしているのか介護されているのか分からない状態だと思ったことから、自ら退職を申し出て大阪府警察を退職することが決まったのでした。 その後は大阪府警察の障害者採用の試験があったことからパソコンを持ち込んで試験を受けたり、障害者用のリクルートサイトに登録したり、クラウドワークスなど自宅でパソコンを使ってできる仕事を模索したりしました。 しかし、なかなか収入を得る仕事が見つからないまま今年 60歳を迎えてしまいました。 ラグビーのコーチに関しては B級コーチの資格を取っていたので、それを更新しながら私が所属していたクラブチーム「ジェントルメンラグビークラブ」などの指導に役立てています。 また「NPO法人仁を愛す脊損の会」の理事や「大阪頚椎損傷連絡協議会」のメンバーとして脊椎損傷者をサポートする活動を続けています。 また都島工業高校の同級生やラグビーの仲間と飲み会をしたり、ラグビーの試合の観戦に出かけたりするのが楽しみです。 突然襲った私の大怪我に対し、家族に支えてもらう日々が続いており、感謝の気持ちで一杯です。

⑦伝えたいこと、社会への提言

私がラグビーのプレー中に大怪我を負って車椅子の生活になったことで、家族をはじめ周りの人に大変なご迷惑とご心配をおかけしました。 その後、中村さんや金澤さんに出会って、このような怪我を負うことが高校生に多いこと、ラグビーによる重篤な事故が年間に20人程度起こっていることなどを知りました。 私自身、ラグビースクールでラグビーを教えていたこともあり、ラグビーを選んで飛び込んで来てくれた子供達に私のような思いは絶対にしてほしくありません。ラグビーで起こる重篤な事故(脳振盪や熱中症などを含む)を少しでも減らさないといけない、と強く思うようになりました。 また怪我をした人たちの負担を少しでも減らせるように、事故後の生活に関する情報共有や、諸外国に倣って基金などを設立すべきであるとも思いました。 私自身タックルが得意な選手であったのに、タックルでこのような障害を負ってしまったことから、ラグビーの試合中や練習中の重篤な事故を全くゼロにすることは難しいと思います。 一方で、ルール改正や練習方法の改善、事故発生状況の共有や周りのサポートにより、限りなくゼロに近づけることはできると考えています。 私たち「ラグビーサポートワン」の方針がラグビー界全体の賛同と協力を得て、少しでも実効性のある活動になることを切実に願っています。