① 事故前の状況
中学校で初めてラグビーというスポーツに出会いました。初めて経験するチームスポーツに戸惑うことも多かったのですが、気が付けば中学・高校とラグビーに夢中になっている自分がいました。そんな中、高校2年の11月に事故に遭いました。前日、先輩方が全国大会予選の準決勝で敗れたため、この日は新チームのスタートの日でもありました。今振り返れば、人生が大きく変わる一日でしたが、当時の私にとっては、いつものグラウンドで、いつもの仲間と過ごす、何も変わらない日常でした。
② 事故の発生
当日は、1・2年生を互角にして2チームを編成し、試合形式の紅白戦を行っていました。前日まで全国大会予選に選手ではなくサポートとして帯同していたため、いつもと違う疲労感はありましたが、新チームスタートというタイミングでもあり、少しでも活躍できればという思いもありました。試合は20分を3本行う形で進められました。ポジションはフランカー。先輩たちがいない練習に少し違和感を覚えながらも、淡々と時間が過ぎていきました。そして、事故が起きたのは3本目の終了5分前でした。味方にパスを出した後、うつぶせに倒れ込んだ私の上に他のプレイヤーが重なり、その瞬間、首の骨が折れる音が全身に響き渡りました。
③ 受傷と診断
その直後、全身から波が引いていくように、首から下のすべての感覚が失われていきました。一瞬、自分の状況が分からなくなり、確認しようとうつ伏せから仰向けに体を動かしました。この動きが、私の最後の動きになりました。体を動かそうと思っても全く動かせない不思議な感覚に囚われ、焦りと不安ばかりが募りました。仰向けのまま全く動かない私の状態に気付いたチームメイトや指導者の方々が周りに集まり始めました。コーチの方の「大丈夫か、体は動くか」という問いに対して、私は「まったく体が動かないんです」という言葉しか返すことができませんでした。当時、高校生だったこともあり、この時の状況を把握する余裕は全くありませんでしたが、周りの人たちが私を不安にさせないよう、温かい声をかけ続けてくれていたことは鮮明に覚えています。一方で、普段の練習や試合で負傷した際の対応とは違うことは薄々感じていましたし、チーム全体から危機感のようなものも感じていました。どのくらい時間が経ったのかわからない中で、遠くから救急車のサイレンが聞こえ始め、病院への搬送が必要な状況であることを、その時初めて把握することができました。事故日が日曜日だったため、多くの病院で受け入れが困難であり、搬送先が決まるまで時間がかかりました。その後、搬送中の車内で急激な眠気に襲われ、次に気が付いた時には、搬送先の病院でMRIの台に乗せられるタイミングでした。搬送先の病院で、私は「C4脱臼骨折、C5圧迫骨折による頸髄損傷」と診断されました。現代の医学では完治は難しく、「息子さんが回復する可能性はほとんどない」と主治医から両親に告げられました。長時間に及ぶ手術は無事終了しましたが、わずかに両肩が動く以外、すべての運動機能や感覚機能を失っていました。
搬送された病院、そしてその後の自宅近くの病院への転院を含め、入院生活は半年間に及びました。現代医学において、頸髄損傷は回復が困難なものと考えられていたため、行われるリハビリテーションも限られた内容でした。それでも、当時の理学療法士の先生方は、関節が硬くならないためのストレッチや、当時わずかに動き始めた左手の筋力を少しでもつけるためのトレーニングを、一生懸命行ってくれました。また、かつてラグビーで同じ怪我をされた方のご紹介で、鍼灸の先生が週に数回、病室まで往診に来てくださいました。さまざまな方の協力により、今より少しでも機能を回復したいと思う一方で、これからの生活に漠然とした不安を感じずにはいられませんでした。
④ 事故後の生活
半年間の入院生活を経て、在宅での生活が始まりました。それだけの時間がかかった背景には、自宅をバリアフリーに改修する必要があったからです。玄関、トイレ、浴室、そこに至るまでの動線すべてにおいて、車いすでの移動や介助者の存在を意識する必要があり、このような障害を負うまで考えたことのないことばかりの連続でした。また、事故によって食事、着替え、入浴など、24時間すべてにおいてサポートが必要となり、当初は家族だけで支えてくれていました。ただ、親ではなく子どもの介護をするとは、両親も思っていなかったと思いますし、何より人生で初めての介護に戸惑うばかりでした。また、自身の身体も生活もすべて一変してしまった私にとって、良くも悪くも頼れるのは両親だけで、終わることのない今の状況から、きつい言葉を何度も両親にぶつけてしまいました。両親も肉体的・精神的に限界を迎えていました。そのような中、私たち家族の助けになってくださったのがホームヘルパーの方々の存在でした。当時、始まったばかりの障害福祉サービスを利用して、ベッドから車いすへの移乗や入浴時のサポートなど、生活のさまざまな場面に入ってくださいました。家族以外の人間が自宅に入ることに抵抗がなかったわけではありません。ただ、それ以上に、自分たち家族の生活や関係性を少しでも改善したいという思いでサポートに入ってくださるその姿勢によって、その抵抗感は日に日に薄れていきました。また、家族とは違う人たちといる時間が増えたことで、両親との関係性も徐々に改善していきました。
⑤ 心理的な変化と孤立
事故によって身体機能だけでなく、将来の多くの選択肢を失ったことは、非常に大きな喪失でした。しかし、それ以上に私を苦しめたのは、事故後の人間関係でした。所属していたチームや通っていた高校との関係が次第に薄れ、孤立していったことでした。
⑥ 学校・組織の対応
事故から1年半後、高校への復学をきっかけに、事故原因の究明と経済的支援について学校側と話し合いを行うことになりました。事故当日から入院を余儀なくされ、在宅に移ってからは介護が中心の生活となり、毎日が精一杯の状況でした。事故原因については、正直なところ、それについて気に掛ける余裕はありませんでした。それでも、人生を大きく変える事故であったため、何らかの調査や再発防止策が講じられているものと考えていました。
一方で、事故後は私の介護が生活の中心となり、両親は休職を余儀なくされました。手術や入院(当時は病院窓口での高額医療費支払いの仕組みが現在とは異なり、高額な費用を賄うため、学校の先生方がカンパを集めて対応してくださいました)、自宅のバリアフリー改修(自宅の改修費用には、ラグビー部の保護者の方々を中心に集めてくださったご寄付も一部充てさせていただきました)、車いすの購入など、さまざまな経済的負担を迫られました。また、私のこれからの生活を考える上で、両親の退職についても考えざるを得ない状況でした。日本スポーツ振興センターの災害共済給付による障害見舞金が給付されましたが、それも私たち家族が被った経済的負担に対して、決して十分といえるものではありませんでした。家族全体の生活が厳しくなる中で、学校に対して経済的支援もお願いすることになりました。
それまで見舞いや募金活動、時には自宅でのトレーニングのためにお手伝いくださるなど、そういったつながりを通じて関係を保ってくれていたチームや学校の方々の様子は、この頃から徐々に変わり始めました。上記の話し合いの中で、事故原因の十分な調査は行われていなかったこと、また経済的支援についても「不慮の事故であり学校に責任はない」との見解が示されました。さらに、話し合いを重ねるにつれて学校側が自宅を訪れる機会は減っていき、最終的には、原因究明はA4一枚の報告にとどまり、経済的支援も募金以上の対応はできないという結論となりました。こうした経過の中で、私たちの中にあった信頼は次第に失われ、話し合いだけでは状況は変わらないという思いが強まっていきました。
⑦ 法的・社会的な対応
「両親が私の介護によって続けてきた仕事を辞めずにいるためには、私の障害による支出や経済的負担をなんとかする必要がある。また、このまま私が卒業してしまえば、事故は過去のものとして風化し、同じような出来事が繰り返されるのではないか」。そういった思いから、事故から3年後に調停を申し立てることになりました。裁判ではなく調停を選んだのは、できる限り対立を避け、話し合いによる解決を望んだからです。しかし実際には、調停の場でも学校側の責任の有無を巡る話し合いが重ねられていきました。また私たち自身も、当初の解決への思いから次第に離れ、「『仕方なかった事故』で終わらせないでほしい。私たち家族だけが事故後の辛いことをすべて受け入れなければいけないのか。相手にも事故に正面から向き合ってほしい」という思いが強くなっていき、気が付けば学校やチームと対立的な関係になっていきました。最終的には、3年の歳月を経て、形式的な和解という形で調停は終了しました。
⑧ 現在の生活と変化
調停という司法の場に救済を求めたことで、それまで続いていたチームや学校との関係は完全に途絶えることになりました。ラグビーを通じて得た経験や仲間とのつながりの多くも、この事故によって失われました。一方で、調停を行わなければ必要な経済的支援を受けることは難しく、現在よりもさらに厳しい生活を強いられていた可能性があります。事故後に、高校への復学や大学進学を果たしましたが、それらを実現できなかったかもしれません。この時、スポーツ事故への補償や対応に多くの課題があることを肌で感じました。現在、私は同志社大学川井圭司教授の指導のもと、同志社大学大学院総合政策科学研究科の博士後期課程で、「ラグビー事故における補償および被災者が抱える現状と課題」について研究を行っております。なぜ事故後に歩み寄っていた事故被災者と学校とが対立することになったのか。裁判という仕組みが、なぜスポーツにおいて両者の対立を深めてしまうのか。自身が調停後に肌で感じたこれらの課題と向き合う中で、既存のスポーツ事故に対応した補償や保険制度の給付金額が、被災者の被った損害に対して十分な救済につながっていないこと、その後、被災者には裁判という選択肢しか残されていないものの、不可避的な事故において過失を争わなければならない裁判の仕組みが、より両者を対立構造に陥らせてしまうことがわかりました。感情的なものではなく、現在の法制度によって自身の事故後の紛争が引き起こされていたことに気付くことができたのは、私にとって僥倖でした。法制度を改善していくことで、同じような出来事を繰り返さないことにつながる点に、何よりやりがいを感じています。
⑨ 伝えたいこと・社会への提言
事故から20年以上が経過し、当時のことは断片的に思い出すことが増えたように思います。一方で、事故後の学校との話し合いや調停、それによって関係性が壊れた事実は、今でも私の心の中で重くのしかかっています。また、同志社大学で研究を重ねる中で、少なからず事故を経験された指導者の方とお会いする機会があり、学校やチーム側にもそれぞれの事情があり、そして後悔があることを知りました。いま、当時の事故を客観的に振り返れば、たとえどの学校で、どのチームで事故が起きたとしても、同じ結果を招いていたのではないかと感じるようになりました。また、同志社大学での研究を続ける中で、事故の被災者や家族と、チームや学校が対立することなく、関係を維持し続けられる在り方を模索していきたいと強く願っています。事故によって私が経験したことは、決して誇れるものではありませんが、同じ境遇の方々にとって、少しでもお役に立つものではないかと思っております。私たちRSOの活動を通じて、被災者やその家族が孤立せず、またチームや学校と対立しないスポーツコミュニティの実現に、少しでも貢献していきたいと考えています。
